シニアーゼ〜まるくるみらくる

60代は余生じゃない。荷物を降ろした新しい人生の始まりなのだ。

60歳を越えて4年。今だから思うこと

40歳~50歳の頃、自分の60歳を思うと何をしているやら、まるで見当がつきませんでした。ただ、60歳を過ぎても、できるだけ長く働き続けたい、それが元気に生きることだと思い込んでいました。

60歳を過ぎても70歳を過ぎても働き続けられる仕事はないものだろうか? 今ならチャレンジする気力も体力もある。そう思いはするものの焦るだけで、何も思いつくことなく目の前の仕事に忙殺され年月は過ぎました。

 

そして、実際に60歳に達したその時。

いつの間に自分が60歳?!嘘みたい!

驚く反面、

60歳? それがどうした?

50代からたった一日過ぎただけのこと。

なにも変わりはしない、ように思えました。

それなのに、社会的に見ると&見られると「終わった人」認定。

60歳というだけで、切られる世界があることを知りました。

60歳だから、という理由で「切られる世界」にしか住んで来られなった自分に、他に生き方は無かったのかと考えましたが後の祭りです。

 

定年という、人生のひとつの卒業。

そのあと、5年間の再雇用の道を選ぶか、思い切って違う世界を切り開いてみるか。

どっちを選んでも後悔しそう。

身もだえするような難しい選択でした。

 

組織の中にいるというのは、案外楽なことです。

目の前の用件をクリアしていけば、今まで通りの変わらない生活がある。

レールに乗って動いてさえいればいい。

給料に差がついても、小さな不満があっても、何もない場所に放り出されることはない。キョウヨウ(今日の用)も、キョウイク(今日行くところ)もある。

 

対して、継続雇用を選択しないということは、どういうことか。

ただ一人の人間に戻る、ということ。

社会的な後ろ盾も、特別なスキルも資金もない丸腰の人間になるということ。

これは、案外楽なことではありません。

「キョウヨウもキョウイク」もなくなるのです。

 

しかし、さんざん迷って、継続雇用を選びませんでした。

なぜ、継続雇用を選ばなかったか。

5年間の自分が見えたから。

どう暮らしているか見えたから。

ありがたいことに、毎日、今日行くところも今日の用もあるけど、ただそれだけ。

心の中には、焦りがひゅううと風になって吹き続けている。

 

私の仕事は、独自の端末を使う接客事務職でした。

社内だけでしか使えない独自のシステム端末です。

会社が変われば、ちんぷんかんぷん。

つまり、いくら精通しようが一歩外に出れば、無知と同じ。

エクセルすら使えませんでした。

仕事に関わる知識は金融関係。時代や法律の改正で常に変化するので、長年積み重ねたとしても、それをそのままスキルとして活用できません。

それまで得たスキルは、職人のように「長年積み上げた手の技」にはならないのです。

会社を退職すれば、何も知らないただの人。

継続雇用が終わる65歳になった時に、その状態が訪れる方がもっと怖い。

このまま流されて暮らせば、5年後に「なにもない」自分がやってくる。

 

定年を迎えるまで、ただひたすらタイパを求めてひた走り。仕事も私生活も、まるで生き急ぐかのように走りに走っていたから、目の前のことしか見えてなかった。

いや、見ていなかった。

それはそれで、それがその時の最善であり、最良の方法だったのだから否定はしません。よく頑張ったとさえ思えます。

そうやって迎えた60歳は、子ども達も巣立ち、「生き物」としての活動をほとんど終えた時期でもありました。

これからが「生き物」人生の先の「ひとりの人」として生きる人生の一歩に思えました。

その新たな一歩の5年間が、猛烈に大切な期間に思えたのです。

 

そんな60歳の私は、ゼロの人でした。

特技も、打ち込める好きなことも、地元の知り合いも、何も持っていませんでした。

でも逆に、60歳の今なら、何でもできそうな気がしたのです。

今なら、まだ間に合う。

チャレンジしよう!

 

5年間を自分を肥やす期間と考えれば、やってみることはたくさんありました。

仕事をやめると「なにもない」と怯えていたのは間違いでした。

何も無ければ、手に入れればいいだけだったのです。

気がついて、自分から手を伸ばせばいいのでした。

 

枯れた木に小鳥が止まりに来るように、初めて体験する「初めてさん」はやってきました。見ていなければ飛び去ってしまう「初めてさん」。

たぶん、継続雇用していたら気がつけなかった「初めてさん」です。

捕まえようと、手を伸ばしてみる。

逃げられてもそれはそれでオッケー。

そんな「初めてさん」のおかげで、枯れ木に小さな新しい葉っぱの芽がいくつも出てきました。

自分とは全く違う世界で生きてきた人、全く違う世界を楽しんできた人々、そんな人たちとも出会えました。

自分時間での働き方もゲットしました。

自分の持ち時間を自分でカスタマイズできる日々。

和田秀樹さんは、(どの本かは忘れましたが)この時期を「思春期」になぞらえて「思秋期」とおっしゃいますが、私には「青春」になぞらえて「黄春(おうしゅん)」

年月を経たからこその、私が私を生きている時期「黄春期」だなと、そんな気がしています。

 

さらに、60歳を越えて、もうひとつ重要なことに気がつきました。

なにを今さらでしょうが。

時代は刻々と変わっている。

ということ。

現時点の60歳はすでにもう「切られる」年齢ではなくなっていると思います。

継続雇用というよりそのまま雇用。

継続なんてわざわざ付けなくてよろしい。

良くも悪くも、ほんの数年でこんなに変わってきている。

これからは、65歳が新しい人生の始まりになるのかもしれないとさえ思えます。

そうなると、私の選択はただの抗いだったのかもって感じですが。

 

結局は、自分の持ち時間をどう使うか。

どう使いたいか。

どんなことが起きても、裕福に暮らせなくても、感情がプラス方向に動くように使って行きたいな。

小さな楽しみを、ひとつひとつ大切に拾って行こう!

11月に行った浜松城。左側の雲がシェパードの顔にしか見えない