久しぶりにこんなものを作りました。
サツマイモの蒸しパンです。
新年のイレギュラーが終わり、いつものルーティンに戻りつつある頃、長女から作り方を教えてほしいと連絡があったので、自分でも久しぶりに食べたくなりました。
子供たちはもちろん、家族全員大好きなおやつです。
蒸したてのあつあつをハフハフ言いながら、争うように食べたものです。
生地に練り込む甘みはほんの少しだけ。
柔らかく蒸されたサツマイモの自然な優しい甘さが口の中で溶けて、それはそれはおいしい。
あつあつにバターやクリームチーズをたっぷり乗っけて食べるのも最高においしいです。
サツマイモは、だいたい5ミリカクとやや小さめに切ります。そういう小さいイモをこれでもかと言うくらい混ぜ込みます。
小さいなと思っていても、蒸してパンになるとなぜか大きく感じるほどの存在感なのです。
我が家では、そんな笑顔の思い出しかない蒸しパンですが、父にとっては違っていました。
まだ、父が存命の頃でした。
サツマイモの蒸しパンの話しになった時、父は言いました。
あんなもの二度と食べたくない。
どうして?ものすごくおいしいのにと言うと、あれを見ると戦時中を思い出すから嫌だ、絶対に食べたくないと、なんだかムキになって嫌がるのでした。
当時、まだ若かった私には、たかが蒸しパンの事でそんなに意固地になっている父がただの頑固者にしか見えませんでした。
なんだか小さい男に見えてがっかりもしました。
しかし、こうしてだんだんと父の年齢に近づき、たくさんの経験を積むと、ほんの小さなキッカケでドッと胸の中に不穏なものが広がることがあることも知りました。
思い出したくないこと。
もう二度と経験したくないこと。
それが、父にとっては「戦争」だったのです。
どんなに辛い思いをしたのか。
もっともっと耳を傾けて、父に心を寄せておけば良かったと今になっては悔やまれます。
きっと父が食べたサツマイモ蒸しパンは、今、私たちが食べているもののように豊かでおいしいものではなかったはずです。
戦時中の食べ物のない時代、やせた土地でも育つからとサツマイモを食べさせられたと言っていたのを思い出しました。
きっと冷たく、質素でボソボソだったに違いないです。小麦粉ではなかったでしょうし、カサ増しのために甘みのない痩せこけたサツマイモが混ぜ込まれていたのではないでしょうか。泣きながら食べたのかもしれません。
私にとって、サツマイモの蒸しパンは、ホカホカ上がる湯気の中に現れる幸せな笑顔の食べ物です。
この先もずっと、笑顔で食べられる食べ物であって欲しい。
心を豊かにしてくれる食べ物であって欲しい。
次の、そのまた次の世代にも、ずっとそうであって欲しいです。
まるまる太った甘くてうっとりする味のサツマイモさんでありますように。