朝ドラ「スカーレット」を楽しみに見ているが、今週前半の流れはツラかった。
この状況が、きっとこれから先の輝ける未来を切り開いて行くことに繋がるのであろうとは思うけれど、あの、ほのぼのT氏でさえ、
子どもがせっかく掴もうとしてるチャンスを、親が摘んでどーする!
とお怒りであった。
スカーレットに出てくる主人公の父親は、女に教育なんか必要ない!と何の躊躇もなく言える人物として描かれている。
時代背景的に、そういう時代であったと言えばそれで終わるような話でもまたある。
私の母親など、昭和6年生まれで意識の中は偏見で満ちていた。
そのひとつは、私を育てる時に、「女の子のくせに」「女の子なんだから」を口癖のように投げてよこしたことだ。
それは、女というものはこうでなくちゃいけないという呪いだった。
私には兄がいて、母親が兄に対して家庭内の仕事を強要することも一切なかった。
女だからなぜ、これをしなくちゃならないのか、なぜ、これをしてはいけないのか、母親に口癖のセリフを言われるたびに心の中で反発していた。
ある日、知人の〇ちゃんがとってもすてきな作文を書いていたのよと上機嫌で話してきた。
将来の夢、というテーマだったと思う。
内容はこうだ。
私は、大きくなったら、真っ白いエプロンをしたかわいい奥さんになりたいと思います。
この夢が、とてもすてきだと言うのである。
当時、小学生だった私には、どういう反応をすればいいのかわからなかった。
母親がとても気に入って話したので、ふーん、と思っただけだった。
当時の日本の状況からしたら、仕方のないことであるし、また、そんな風に刷り込まれていた時代の人である。
自分の周りに、そうでなくてもいいんだよと考える大人が一人でもいて、自由に羽ばたきなさいとそっと耳打ちしてくれるようなこともなかった。
私は、反発心を抱きながらも、世の中はそういうものかと思って育った。
世の中はそういうものであるとしても、私は子を育てるにあたり、決して性別によって差別する事をやめようと心に決めていた。
せめて、自分が受けて嫌だった呪いをかけるのは絶対にやめよう。
呪いは、人を不自由にする。
子ども達は、二人とも女であったが、成人してそれぞれ所帯を持った今まで一度も女の子なんだからね、という言葉を使ったことはない。
しかし、そうやって気をつけていても、全く、親というものは意図せずして子どもに呪いをかけていることがある。
ある日、テレビを見ていたら、前々から好きではなかったタレントさんが出ていて、何気に、この人きら〜い、と言ってしまった。
すると、娘から物言いがついた。
お母さんが嫌いというと、自分まで嫌いになるから、そういうことを言葉にしないで欲しい、そういうキッパリとした内容だった。
なるほど、そういうものか、これは気をつけなければいけないな、そう思うと同時に、振り返ってみると、子ども達は、いつの間にか、私が以前褒めた学校に入ったり目指したりしていた。
決して、強制もしていないし、尻をたたいたりもしていない。
むしろ、ただただ健康で元気でいてくれさえすればそれでいいと願っていた。
しかし、それはそれで、自分は親に何も期待されていないのかと子ども心を落胆させるものでもあるらしい。
子どもというのもまた、意図せずして、親の期待に応えようとか喜ばせようとか頑張るものなのだと彼女らが成人してからわかった。
子どもは、親の思いもしない所で親の意向をキャッチしている。
親は、それをさらにキャッチしなくてはいけない。
キャッチした上で、コントロールするのは最悪だ。
キャッチしたら、その子の人生を一番に考えなくてはいけない。
親の思うように言いなりにしてはいけないと思う。
勘違いしやすいところだ。
子どもは、親の所有物ではない。
一人の人格と人権を持った人間なのだ。
一人の人として、自分の人生を歩んでもらわなければいけない。
私自身は、自分の意識の外で、いつのまにか子どもをコントロールしていたのかもしれないとも思う。
きちんとキャッチできる母親になって、もう一度やり直したいとも思った。
今は時代が変わって、私が母親からもらったような呪いは影を潜めた。
朝ドラの父親は、強要的なお膳立てをして、強制的に主人公の人生のレールを敷いている。主人公は、その父親によって人生を翻弄されるが、それを受け入れた上で自分のオリジナル人生を生きようとしている。
親もひっくるめ、もともと持っていたしっかりとしたコミュニティの中の生活。
だけど、一度外の世界を見てきたからこそ見つけ出せる自分だけの何かを選びとって行く人生。それが今後、展開されて行くのだろう。←ただの推測。
人生が、これからだ。
ちょっと羨ましい。
子育てほど難しい仕事は無いと思う。
この年齢になって、初めてそれがわかる。
孫が、我が子以上にかわいく思えるというのは、そういうことかもしれない。