忘れたかったが、覚えていた。
病院に行かねばならない。
とは言え、6カ月も前の予約である。
ハッキリ言って、たった一人の患者が予約をすっぽかそうがどうしようがどうでもいいに違いない、その上、このコロナ騒動で病院は大変なことになっている。
半年前の予約なんかむしろ忘れてもらいたいのではないか?
そう思って、もう行かない気分90%でのらくらしていた。
すでに予約時間には間に合わない。
迷惑だろうとは思ったが、恐る恐る電話をしてみた。
「コロナで緊急事態になっているので今回は無理に来なくてもいいですよ」
きっとそう言われる。その期待しかなかった。
がしかし。
「コロナの影響?
う~ん、外来の方が少なくなってるくらいですね~。
え? 一時間くらい遅れるんですか?
(少しの間)
いいですよ~。」
全くの期待に反したお返事であった。
行かねばなるまい。
気持ちよく「いいですよ~」と言われてしまった。
超絶ハイスピードで支度をして病院へと向かった。
前回の時、次で卒業だと言われたし、これで最後ならまぁいいか。
一昨年の冬に目の手術をした。
そのとき事前の検査で撮った胸の写真に白い影が見つかった。
それで、経過観察のフォローアップとなってしまったのである。
この一年の間にもう2回もCTを撮ったが、特に変化もない。
「先生、これもう無罪放免じゃないですか? 今回で終わりでいいですよね?」
毎回、先生に訴える。
なんとかして来たくない。
担当医は、優しくさわやかな歌声で「ひまわりの約束」を歌う秦基博さんに似ている。
なんとなくほんわかしていて、細い目がいつも笑っているようなお顔立ちだ。
医師業務にこのひまわり顔はなかなかに有利だな。
「フォローアップは最低2年! あと少し頑張りましょう」
ひまわり先生に悪気もなくそう言われたら、はいと言うしかない。
でも今回でラストのはず!
病院に向かう道。
少し手前に横断歩道がある。
そこには、すぐそばに歩道橋もある。
歩道があるから、渡る人はほとんどいない橋だ。
少し手前でタイミングよく青になったから、いつもの癖で、小走りに歩道を渡ってしまった。
常に急いできた。
何かと競い合うように、早いほうを選んで行動してきた。
いつ人生のラストが訪れるかわからない。だから、一分一秒を無駄にせずに生きよう。
一分一秒の間にできるだけたくさんの事を詰め込もう。
いつもその囁きが頭の中のどこかにあった。
人生にはきっと、そういう時代が必要なのだ。
今は。
どうやらそういうガムシャラ時代を過ぎてしまったようだ。
同じ一分一秒の、ひとつひとつにじっくり向き合いたい。
次々と過去になっていくこの一瞬一瞬が愛おしい。
やり直したくても、たった今さっきの過去にすら戻れないのだ。
残っている未来の時間、一瞬一瞬を楽しもう。
道路を渡る時間の数秒の差なんか、もうどうでもいいのだ。
検診結果でセーフが出れば、あの橋を駆け登って帰ろう。歩道橋に枝垂れている木々の、命みなぎる緑とりどりの葉っぱを愛でながら軽い足取りで上り下りしよう。
歩道橋を見上げながら、そう決めた。
万が一、ソッコーで入院などという事態になったらそれはそれ、その時考えればいい。
病院へ到着すると、入口の様子がいつもと違っていた。
まず、入口と出口を明確に分けて開け放しており、出口から入る人がいないように案内の男性が立っていた。
さらに、入口の風除室に入るとすぐさま、そこへ立ってくださいと、足形を指し示す女性の声がした。
足形?
女性の顔を見る余裕もなく、これかなと足形に合わせて立つや否や、顔を上げた途端真ん前にジャジャーン!と自分の体のサーモグラフィが現れた。
顔周りが緑色で、お腹の周りが赤くなっていた。
「ほほ~!」
熱は無い。でも必死で歩いて来たから体は熱い、などど感慨に浸っていると、
はい!36.5度ですね。
女性の声が聞こえた。
見ると、画面上方にでかでかと36.5の数字。
な!なるほど! 熱のある人を一瞬で見分けるあれかー!
感動と驚きに若干よろけながら振り返って進むと、今度は、白いボトルの女性が待機している。
アルコール消毒してくださいね。
シュパシュパ。
手にたっぷりとアルコール消毒液をかけてもらって、やっと本館へと入場できた。
コロナ対策、おそるべし。
窓口はどこももれなくビニールシートで飛沫を防いでいる。
色々と努力をなさっている。
でも、入り口のお三方は、立ってなくて座っていても良くない?
きっとコロナの影響で、あの入り口に立ってください。そう言われて今までは別の仕事だったが急遽入口担当になったにちがいない。
本来ならそこに立っていなくても良かった人々。
人の往来も少ないのにと、なんとなく申し訳ない気持ちになる。
検査を終えて、担当医ひまわり先生の診察。
名前を呼ばれて、診察室に入ると、いつもはうっすらと伸びかけた熊五郎のような髭と一緒に先生の笑顔が待っているのだが、今回は白いマスクに覆われて見えなかった。
若干緊張したが、すぐに解けた。
肺の写真を見ながら、
「まあいいでしょう。」
そう言って、マスクの目でいつものようにひまわり笑いをした。
やった!
これで本当に無罪放免。もう来なくていい。
「よかった~。これで終わりですね!」
にこにこして言うと、違うという。
なんだって!?
先生、先生、話しが違う。
食い下がったが結局、次回に何ともなければ本当にラストという確約を取って診察を終えた。
診察室を出る背中に、
「お大事に~」とお気楽な先生の声。
「先生もお元気でー!」半年後にまたお会いしましょう。
「はーい」と少し笑っている声を聴きながらドアを閉めた。
こんな、生命の維持に全くの関わり無い挨拶のような言葉のやり取り。
そんな小さな関わり合いが、どれだけ人をハッピーにしているか。
今回のステイホームでより一層実感した。
若かろうが老いていようが関係ない。
人は人と言葉を交わすことで、元気になれるのだ。
雑談こそ、大いにするが良いぞ。
ふと、白髭の重鎮じいさまの声がした。
さすがわかってますね! じいさま。
でもね、じいさま、雑談って案外むずかしいよ。
特に、それほど親しくない人とはね。
オンラインみたいに顔だけで雑談するのはもっとね。
目的を同じにするテーマがあれば別だけど。
同じ空気の中でこそ、雑談は 盛り上がる。
ほっとした帰り道。
横断歩道がもうすぐ赤に変わりますよと点滅しているのが目に入り、大急ぎで走り寄って渡ってしまった。
あら~。。。
ま、いいか!
次回こそは、歩道橋を使おう。
ゆっくり階段を上り、せわしなく行きかう車の流れを真上から見物し、たたたっと軽快に降りて行こう。