シニアーゼ〜まるくるみらくる

60代は余生じゃない。荷物を降ろした新しい人生の始まりなのだ。

サインを見逃さず心のざわつきに気づこう

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どこからかサインが送られて来ることがある。

何かをやろうとして限界まで必死に頑張っているのに、邪魔が入ったり行く手を阻まれたり。日常生活に普通に起こりえる些細な形でサインはやってくる。

 

小さな事で説明すると、急いでそこへ辿り着こうとしているのに、やたら邪魔が入る、とか。

邪魔といっても、道の幅いっぱいに広がって歩いている人々がいて追い越せない、それをやっとこさ追い越せたと思ったら、次はスローモーションのように道の角から杖をついた老人が現れて道を塞いだり、それもまた、やっと通り過ぎたと思ったら、今度は赤信号にぶち当たる、しかも、その信号は逆を渡ろうとすると必ず赤なので、今渡ろうとしているこっち側が赤になることなど皆無に等しいという確率なのに、といった具合。

 

そういう時、超絶急いでるのに!とついついイライラしてしまいがちだが、最近は、ああ、これは急がなくていいよ、というサイン来たな、と思うようになった。

 

そんな時たいていの場合、そこへ必死になって辿り着いても結果は同じ。

全く急がなくて良かったなという状況だったり、それどころか 待つ という行為まで発生したりする。

 

逆に、異様なほどちょうどのタイミングで信号が次々に変わるとか、やたらスイスイ行く時は急いでみる。すると急いだからこそできた余裕の時間が救いになったりする。

 

急がなくていいよとか、急いでみてとか、メッセージを送ってくる時に、イギリスのコメディアン ミスタービーンのギャグみたいなシチュエーションを投入してくる時は最高に面白い。

焦ってる自分の動きがミスタービーンみたいにコミカルになっているように思えて笑えたりする。

 

ここまで、読んで こいつヤバイ系? やばいやつやーん!と思われるかもしれない。

別に宗教にはまってもいないし、むしろ、信じている宗教もない。

自分の中に沸き起こる単なるイメージかもしれない。

不思議だが、そういうサインが訪れることがある。

 

こんなサインに気づいたのは、まだ幼い長女を連れてプールへ行ったときのことだ。

ある日、温水プールへ行くことになった。

20年以上も前のことだから詳細は覚えていない。

まず、そのプールへ行くのに電車の乗り換えだの人混みだのがとても面倒で、最寄りの駅に着くだけで私ら両親は疲れてしまっていた。

しかも、着いてみたら、さらにそこからバスだった。

当時は、もちろんスマホもないし乗り換え案内のアプリも無かった。

アナログ的に自力で調べて行く時代だった。

時刻表を確認したら、たった今出発した正にそのバスに乗らなければならなかった。あと一歩早ければ乗れていたのに、目の前の去って行く後ろ姿が恨めしかった。

次のバスまで、かなりの時間があった。

その上、風が強く吹きはじめて周囲の木々を大きく揺らし始めていた。

帰りたい。

今すぐ、帰ったらいいんじゃないか。

心がざわめいたが、せっかくここまで来たし、なぜか夫は絶対に行くと意地になっていた。

そのうち、ポツポツと小さな雨まで落ちてきて薄ら寒い嫌な空模様になった。

プールへは行かずに帰ろうか? いやでも、せっかくここまで来たし。温水プールだし。

プール行きたい? 小さな子に尋ねると、無表情のままコクンとうなづいた。

彼女に意思は無かった。親が行こうとしているから、うなづいただけだった。

ザワザワする心のまま、何十分も来ないバスを待ち、気温の下がったプールへ行った。

疲れて帰ったその夜から、長女は熱を出した。

喉がパンパンに腫れて、一週間熱は下がらなかった。

 

小さな体で高熱と闘っている我が子の姿に胸を締め付けられながら思い返すと、たくさんのサインが送られていたことに気がついた。

 

プールへの最寄りの駅までですでに疲れたこと。

バスが運悪く目の前で行ってしまったこと。

風が強く吹き始めたこと。

気温が下がって小さな雨まで降り出したこと。

 

全力で止めなさいと言われていたんじゃない?

やめなさいのサインが次々と繰り出されていたよね。

すぐに、引き返して帰るべきだった。

 

逆のこともあった。

遠くに住んでいる病気の父を見舞った時のことだ。

だんだんと暗くなり夜になっても延々と眠っている父を見てもう帰ろう、そう思って立ち上がった瞬間に目を覚ました。

このまま、父としばらく話をしたい、だけど、実家では母が一人で私の帰りを待っている。帰らなきゃいけない。もう、最終のバスも行ってしまう。でも、これで帰ったら後悔するんじゃないか? 

帰ろうとする私の目の前で父は目を覚ましたのだ。

帰るね、目を開けた横顔に告げると天井を見つめたまま寂しそうな目をしてうなづいた。また来るね。また来るからね。後悔するんじゃない?後悔するんじゃ?心がザワザワしながら帰った。

一週間後に父は逝った。

危篤の連絡が来て大急ぎで向かったが、辿り着くまでの6時間半を待ってはもらえなかった。

あの時、目を覚ました父の奇跡に気づけば良かった。

心のざわつきを無視しなければ良かった。

 

それからは、何かを決めなければいけない時、サインを見逃さないようにしている。

 

昔から、第六感とか直感とか勘が働くとか、とんとん拍子とか渡りに船だったとか色んな言い方で、そういうのをたとえている。

それって、本当は、生きてきた多くの経験の記憶から脳が瞬時にたくさんの決断をして答えを出していると何かで読んだ。

そうかもしれないし、たぶん、そうなんだろう。

もともと、自分や周囲の人が種を蒔いている場合も、もちろんある。

しかし、それだけにとどまらない偶然の重なり合いが目の前で起きるのは事実だ。

 

そんな不思議なサインを、良い方に捉えて動くことにしている。

定年後の継続雇用をどうするか決断する時もいくつかのサインがあった。

そのサインが、今後の未来に良い方に出るかそうでないかはわからない。

ただ、きっとサインを見逃さない決断があったからこそこうなった、そういう何かが待っているに違いないと、都合良く考えている。

 

こんな時になんで?!

どーして今こーゆーことが起きる?!

なんでここまでついてないんだろう?

なんて違和感を感じたら、あれ?これって。。サインか!?と、サインを受け取る自分を信じることにしている。